寿安堰
胆沢平野の二大用水の一つである「寿安堰」
「寿安堰」は元和4年(1618)に伊達政宗の家臣で福原の館主であったキリシタン武士後藤寿安によって開削が始められた。寿安はヤソ会の神父アンジェリスの訪問を受け、アンジェリスは、福原周辺の土地を見て「アラビアの砂漠のようだ」と驚き、かんがい用水の開発を示唆したと言われている。言い伝えによるとこの工事は、幾度ともなく洪水等により破壊されたこともあったが、外国人宣教師に学んだ寿安は、現代のクレーンのようなものを作り、それで大きな石を運び堅牢な石垣を築いたということである。胆沢川の激流に挑み、しかも段丘上位部へ引水しようとしたので、その工事は、苦難の連続であり、そこには創意工夫と新しい知識が活かされたであろうことが創造される。
しかし、寿安は、工事半ばにして福原の地を去ることとなり、工事は、胆沢川上流の金入道から大違(現胆沢若柳字土橋周辺)までの1,700mを開削したまま中断された。伊達政宗は、キリシタン教徒であった寿安を擁護し、転宗をすすめた。しかし、寿安は晩節を曲げず、将軍徳川家光から厳命を受けた政宗は、止むを得ず追ってを差し向け、寿安は12名の部下を伴って何処ともなく落ちて行った。
寿安が追放された後、寿安の意志を継いで寿安堰の開削を続行したのは、千田左馬、遠藤大学であった。寿安の去った翌年の寛永元年(1624)は稀にみる大干ばつであり、水田は白く乾き干割れし、畑は土ぼこりで作物を枯らした。殊にも下胆沢地方の干害は惨状を極めたということであり、寿安堰の1日も早い完成が望まれた、彼らは、多くの農民の協力の下、幾多の困難を克服し寛永8年(1631)に完成させた。この水路は現在の寿安上堰であり、全長は20km余に及ぶ。千田左馬、遠藤大学も寿安と同じくクリスチャンであり、寿安から多くのことを学び、この難工事を完成させたことが想像される。
我が国で唯一クリスチャンネームを冠した農業用水路
「寿安堰」は江戸の初期、元和4年(1618)に伊達政宗の家臣、後藤寿安が着工し、一時の中断の後、地元古城村の千田左馬と前沢村の遠藤大学がこれを引き継いで寛永8年(1631)に完成した。後藤寿安はキリシタンであった。それゆえに江戸幕府のキリシタン禁制に触れて、事業半ばにして追放の身となった。政宗は寿安の能力と人柄を惜しんで最後まで転宗を勧めたが本人は晩節を曲げなかったとも伝えられている。しかし、寿安の意思は着実に受け継がれた。千田と遠藤は地形を生かし、難工事を巧みな工夫で乗り切って、胆沢川の水を胆沢平野の中央部一帯に導いた。この大事業によって、それまで小さな沢沿いで不安定な稲作を余儀なくされていた地域が大きく生まれ変わった。堰の名を寿安堰と言う。寿安はラテン語でJohannes(ヨハネ)、日本で唯一のクリスチャンネームの用水堰である。3人は郷土の偉人である。春と秋には地元の手による寿安祭が開かれる。当日はキリスト教の神父も参加する。クリスチャンとしての寿安は本国バチカンでも高く評価されているという。(水陸万頃1998.10より)