葦名堰
当時の農業土木の技術を結集した水路
葦名堰は、胆沢扇状地の南側に接する衣川村の北股川に水源を求め、後藤寿安が寿安堰の工事に着手したといわれる元和4年(1618)に、衣川荘の領主であった葦名氏が小山の二の台を開発するため、5代、51年の歳月を重ねて開削した延長24,140メートルの水路である。この内、穴堰は15箇所で5,530メートルに達する。
用水路は扇状地の段丘面からおよそ数十メートル下の浮石質凝灰岩を掘り進み、穴堰と平堰(開水路)を交互に配置しながら、狭間(狭い所)、瀧・井戸(川、谷の底を横断するサイフォン)、樋などを造成し、勾配差などの地形を巧みに利用して、北股川の水を二の台に引いた。当時の農業土木技術の粋を結集した水路である。
半世紀に渡る大事業を支えた葦名盛信親子
葦名堰は、別名「刑部堰(ぎょうぶせき)」「二の台堰」とも呼ばれ、後藤寿安が寿安堰の工事を着手した同じ年の元和4年(1618)から衣川荘の領主であった葦名氏5代が51年の歳月をかけて開削した水路であるといわれている。
葦名堰の特徴は、段丘面から数十m下の浮石質粘土層を開削し、隋道は15箇所で5,530m、平堰も15箇所で18,610mとなっている、総延長24,140mに及ぶこの水路の設計と測量はどんな機器を使ってどのようにして成し遂げたのか、ずい道と平堰を交互に配置し、サイフォン、樋、勾配差等を利用し、流路にも変化をもたせ渋滞しないように工夫する等、土木技術の発達していなかった当時における最高の知恵の結集であったと思われる。
この地域の古老がまだ壮年だった頃、約2,000mの隋道の掃除をした時は、息が止められるように苦しかったということである。これは隋道が膝を曲げてはい歩く程度の高さしかなかったことに加え、空気がよどんでいたことも考えられる。これらのことからも想像を絶する難工事だったことが伺われる。
昭和4年(1929)には、葦名堰の恩恵を受ける地元農民により、葦名家に対する「報徳碑」が建立されている。